海と婆さん

海と婆さん 日記

たぶんその時、その婆さんを見ていたのは世界でわたしだけだったと思う。
わたしは営業の仕事で海の近くに来ていた。
昼休み、わたしは防波堤の近くに車を停め、今朝こしらえたおにぎりを食べた後、海をぼーっと眺めていた。
昼休みをとっていたのだ。けっしてさぼっていた訳ではない。

うとうとしかけたその時、わたしの右側でキコキコと音がする。誰かがゆっくりと近づいてくる音だ。
一人の婆さんだった。
腰をおとして、手押し車を押している。キコキコした音は、婆さんが手押し車を押す音だった。ひときわ目を引いたのは、その手押し車の上に鮮やかな黄色の花束が置いてあったことだ。
わたしはなんとなく想像がついた。
きっと婆さんは、花束を海に投げるのだ。海で亡くなった亭主か、はたまた友人へのお悔やみか。
しかし、婆さんの動きはゆっくりだ。スローモーションを見ているようだ。気づけば、先程おにぎりを食べていた時に防波堤に釣り糸を垂れていた何人かの釣り人たちはいなくなっている。世界には、わたしと花束の婆さんしかいなくなってしまった。

婆さんはどこを目指しているのか。
婆さんは、わたしの目の前をわたしがいないかのように通り過ぎ…たと思ったら止まった。婆さんは手押し車の荷台の中身をまさぐっているようだ。わたしの車の真ん前で。わたしに見せつけるかのようだ。
しばらくすると婆さんは何事もなかったかのように前に進み始めた。しかし、婆さんはどこを目指しているのだろう。動きがゆっくりでちっとも前に進まない…と、また止まった。また荷台の中身に手をつっこんでいる。中には一体何が入っているのだろう。わたしは少し興味が湧いた。

婆さんは、少し進んで手押し車の中身をまさぐる、という行為を何度か儀式のように繰り返しある地点まで来た。
ここがそのポイントだ!
わたしはすぐさま理解した。なぜなら婆さんは荷台の中身でなく、花束に手を掛けていたからだ。
婆さんは、花束を手に持って高々と上げると(と言っても婆さんの身長は低いが)ためらいもせず海に投げ捨てた。

ん?何か変だ。
わたしは婆さんの一連の動きから「投げ捨てた」という印象を受けたのだ。
花束を高々と上げた後、花束に対して「あっち行けー」のような、人を振り払うようなしぐさで投げたのだ。
婆さんはその後、海に向かって両手を合わせたので、わたしは最初に思い描いた想像を確信したのだが、その後の婆さんの行動にわたしは目を疑った。婆さんのとった行動は奇妙だった。

花束を投げ捨てた(やはり、この表現がしっくりくる)婆さんは、また手押し車を押しながらゆっくりと前に進み始めた。しばらくして止まる。
また儀式が来るのか?やはり儀式だ。婆さんはまた荷台の中身を手でまさぐりはじめた。今度の儀式はやけに長い。ついに婆さんはしゃがんで中身をかき回しはじめた。
婆さんがしゃがんだ時は、さすがに体調でも悪くなったのかと思ったのだが違った。
婆さんはなにやらキラキラ光る四角い物を取り出していた。天気が良く、太陽も照りつけていたのでキラキラ光って見えたが、良く見ると銀色のクーラーバッグだった。保冷機能は今一つだが、折りたたみできる簡易タイプのやつだ。
婆さんは銀色のクーラーバッグを左手で高々と上げ(極めて低い位置だが)、右手で中身を取り出した。白いレジ袋に何かが入っているのが見て取れた。その右手は海の方向を向いている。

わたしは嫌な予感がした。
予感は的中し、婆さんは、花束と同じく「あっち行けー」の仕草でそのクーラーバッグの中身を海に投げ捨てた。良く見えなかったが、白いレジ袋に何かが入っているようだった。その後の婆さんは歯止めが効かなくなってしまった。
また荷台の中身をまさぐり始め、赤いロープのようなものやら、先程捨てたものとは別の白いレジ袋に入った得体の知れないものを海に投げ込み始めた。荷台の中身は4次元ポケットなのか?婆さんは予想以上に色々と取り出しては高々と上げ海に投げ込む。

これは婆さんの中では大事なことなのかも知れないが、投げる直前、婆さんは手にしたものをいったん高々と上げてから海に投げ込むようだった。
しまいには先程投げ捨てることの無かった銀色のクーラーバッグまで高々と持ち上げ投げ捨ててしまった。わたしはあっけに取られて見守るしかなかった。(さっき一緒に捨てとけばいいじゃん!)婆さんはその間、いっさい声を発することなく事を進めていた。もしかしてあの手押し車も?というわたしのふざけた予想は裏切られ、婆さんは元来た道をゆっくりと引き返していった。わたしの車の前を婆さんが通る時、わたしはまともに婆さんを見ることが出来なかった。少し怖かったのだ。

婆さんの姿が見えなくなった。
わたしは婆さんが投げ捨てたところまで行って海を覗き込んだが、もう何も見えなかった。

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