この世にみれんがあるとすれば

人生も40年を過ぎると「死」について考える機会が多くなる。
なぜなら、友人やまわりに病気になる人や死を迎える人が増えていくからだ。
わたしは20代のときまわりには「40歳まで生きればいいや。歳をとっても格好わるいし」と豪語していた。
実際に格好わるい40代になってみると「まだ死にたくない」と考えている未練がましい人間だ。
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【写真/2012年5月27日 裏庭。コントラストが綺麗な一枚】


先日見た寺尾聡主演のNHKドラマ「永遠の泉」は味わいのあるドラマだった。
親しい人との永遠の別れ。
連れ添った妻の死を迎える前の夫の気持ちと、死を迎えた後に夫が生前の妻に助けられて生きていく人生が淡々と映し出されていた。
こんな場面がある。
阿蘇山で湧き出るきれいな泉の水を飲む場面だ。
主人公の娘の婚約者がこんなことを言う。
「なにかこう歴史を感じませんか。今飲んだわき水は昔、この川を下った海までいって、その海の水が蒸発して雲になってまた雨となって大地に浸みわたり、わき水となってまたここに戻ってくる。そんな巡り合わせの中でわたしたちも生きているんです」

輪廻(りんね)という言葉がある。
生まれ変わってまた生きていくといった意味で使われることが多いが、「流れている」といった意味や「世界」といった意味もあるそうだ。
「世界はまわりまわっている」という意味でわたしはとらえている。
親しい人との別れをまだ自分は体験したことがない。
ドラマをみて、そういう日が来るのは辛いものだろうな、と思う。
生と死について、まっすぐに心に響いたセリフがあった。
「生とか死とか人は線を引いて区切って考えてしまうけど、本来生と死に明確な区切りはなくて、生と死って隣り合わせなんじゃないかって」
わたしは「死」がいつもとなりにいたことを忘れていた。
忘れていたというより、忘れるようにしていたのかもしれない。
ドラマで最後に死を迎えたときの妻の望みは、
「水が飲みたい」だった。
夫は妻に水を飲ませ、妻は静かに死を迎える。
その場面を回想して夫は言う。
「人は死が近づいて来ると、この世のみれんをひとつずつまたひとつづつ捨てていって、最後に残ったのがあの『水が飲みたい』だったんじゃないかなって思うんです」
最後にたった一つみれんがあるなら、わたしは誰に何と言うのだろう。

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