「王書」の中の 生と死 の表現

言葉のロゴ 言葉

古代ペルシャの神話や伝説をまとめた「王書」を読んで気になった言葉です。
「王書」は、イランの人々に愛されている本だそうです。日本で言うなら古事記が近いとのことです。
特に「第2部 英雄伝説の時代」にある生と死に関する記述が面白い表現でした。

参考文献

『王書』岡田恵美子(訳)岩波文庫

第2章 白髪のザール より

第四の司教が問う。

「一面に青草が生え小川の流れる牧草地を君は見ている。鋭い鎌をもつ一人の屈強の男がいきなり入ってきて、緑の草も枯れ草も刈りとり、君の願いを聞きいれようとせぬ

「(さて第四問の)草地で鋭い鎌をふるう男の話。彼は緑の草も枯れ草も震えおののくほどの勢いで両方かまわず刈りとり、あなたの願いも聞きいれなかった。この刈りとる男は「」であり、私たちは「」なのです。「時」という刈り手は祖父も孫も区別しません。老いも若きも容赦なく、出会った獲物をとらえるのです。これがこの世の掟であり条件ですから、すべての人の子はただ死ぬためにのみこの世に生まれれるのです。人はこちらの扉から入ってあちらの扉からでていく。呼吸の数は運命によって数えられているのです

第4章 悲劇のソフラーブ より

私たちはみな、頭に王冠をおこうと兜をおこうと、死の餌食です。時きたれば死なねばならず、生の後にくるものを私は知りません。おお、英雄よ、死の悩みを免れるものが居るでしょうか。各人それぞれが、己の身を嘆かなければいけないのです。この世における生の道は長いにせよ短いにせよ、死に追いつかれれば私たちは破滅するのです

コメント

タイトルとURLをコピーしました