ゴミと人類

「よくもまあ、こんなに集めたもんだ」
父と母の遺品整理をしていて、気づいた。
特に母親の集めたものは凄い。

子どもの写真、姉妹からの手紙などは理解できる。
スーパーの袋、菓子折りの箱(たぶん少し綺麗目な箱だろう)などもよくあるパターンだが、量が恐ろしく多い。お勝手の整理棚に至っては、菓子折りの箱やら木箱やらを沢山とってあるものだから、そのせいで、物が置けなくなっていた。鍋やフライパンが片身の狭い思いをしている。

あらゆる引き出しという引き出しの下に敷いてある新聞紙と広告の量に辟易した。衣類の下には必ず新聞紙が敷いてあるのだ。なぜ昔の人は、下に何か敷くのだろう。
タンスからは、母が勤め先で使った名札もでてきた。しかも名札が4つくらい。同じ会社の名札だが部署が変わったようだ。しかし、取っておく理由がよく分からない。

祖母が亡くなったときにも感じたが、捨てることになる衣服の量が普段本人が着ていた衣服の量と比例しないのだ。いつからとってあった服なのだろう。たぶん、体積で言うなら、衣類が一番多い。
人が死ぬと、こんなにも不要な物がでるのかと思った。
しかもそのほとんどは、生きている間に不要になっているものだと思うが。

祖母や父母の死を通じ、わたしが実感したのは不要になりゴミとなってしまう物の多さだ。死んだら、残された人にとってはゴミとなってしまうものが沢山ある。
本当にそれが必要なものかどうか、自分の生活に照らし合わせて考えるようになった。

仕事で出るゴミについても考えた。
大まかに言えば、わたしはパソコンで書類を作成して、何日後かにシュレッダーにかけている。最近は個人情報が特定できるものなどはすぐに廃棄処理となる。職場のシュレッダーゴミの量を見るにつけ、仕事とは何だろうかと考えてしまう。
自分でせっせと作った物をゴミとして捨てているようなものだ。

遺品整理して「ゴミ」となったものを、近所の集積所に捨てに行った。
息をまともに吸い込めないような、むっとした臭気が立ちこめる巨大なゴミ捨て場がそこにあった。ゴミ袋を投げ入れたが、すぐには下には届かないくらいの高さだ。
遺品整理をしたついでに出てきた自分の中学校時代のアルバムも一緒に投げ入れた。さっき、妻や子どもたちに見せたので、もう見せる人もいないだろう。

地球上で人類以外の生物は、リサイクルという言葉は知らなくてもリサイクルをして生きている。
落ちて行くゴミを見ながら、人間のしていることって何だろう、と思った。

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