若いうちの苦労

「生きる」ということは、「問題を解決していくこと」に他ならない。
「若いうちの苦労は買ってでもせよ」というのは、「問題を解決していくこと」の能力を高めていくことがこと若いうちに関しては重要だからである。


少しでもいやなことや辛いことがあると投げ出したり諦めたりしてしまう学生がいる。
そのまま放置しておくと確実にそれをしないで通り過ぎて年齢だけが加算される結果となる。
もちろん物事を簡単に諦めたりしてしまう原因は本人だけではなく、親やまわりの環境によるところも大きい。
そう考えると、わたしの親は辛抱強かったのだなあ、と改めて感謝の気持ちでいっぱいになる。
一回で出来なくとも何回でも子供を信じてやらせることだ。
そういう意味では、子供が物事を投げ出してしまったときにタイミングよく叱ることは必要だ。
「やだ!」というのは合図で、本当はやりたいのだけれども出来ないから「やだ!」なのだと思う。
持っている言葉が少ないので「やだ!」と言ってしまうが、気持ちは「くやしい」だったり、「もっと出来るようになりたい」だったりするのではないかと思うのだ。
わたし自身顧みて感じるのは、投げ出しそうになったときに「くやしい」とか「もっと出来るようになりたい」と本当のところは言いたいのではないかということだ。
感情は直球では来ないものだ。
小さい頃を思い出してみてもそうだが、叱ってくれるから安心して「やだ」が言えるではないだろうか。
親が子に叱る、先生が学生に叱る。先輩が後輩に…
本人のことを思って叱ってくれるひとは年齢に関係なく、大人である。
そうした存在が大人になる前の「若い人」には必要だと感じる。
「生きる」ということは、昨日は出来なかったことが今日は出来るようになる、ということであり、日々初めてぶつかる問題を解決し乗りこえていくということだ。
明日わたしが出会う問題はどんなものかは知らないが、いい歳をして「やだ」とつぶやいてみても叱ってくれる人はいない。

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