わたしの祖母は94歳の現在も毎日本を読むことが日課になっている。
以前、わたしやわたしの妹たちが贈った本を祖母は今でも読んでいる。
「何回読んだかわかんないわ」
と言われたことがある。
以前に読んだ本でも、その内容を忘れてしまっているので気にならないらしい。
【写真/2012年6月12日 引いた語に付箋紙を貼った小学生の辞書】
最近は足が悪く、庭にでることも少なくなった祖母であるが、虫眼鏡を使いながら本を読んでいる姿をみると頭が下がる思いだ。
祖母が読んだ本の中身をいくつか見たことがある。
見開きのページや最後のページなどの余白部分に「○年○月○日○○ヨリ」などと本を贈られた日付と贈り主の名前が書いてあったり、「○月○日○○カエル」わたしなどが帰省したときに自宅に帰った日付が書いてあったりする。
そこに書いていつ見るのだとわたしは不思議に思ってしまうが、本人にとっては記しておきたかったことなのだろう。
そういえばわたしの妻の今は亡き母親は、物を買うと買った日付や金額、買ったお店の名前までそのものに書いていた。
最初見たときは、なんでこんなに此処かしこに日付がかいてあるのだ、と思っていたが今見ると記録しておくという行為は歴史を知る上で重要なことだと気づいた。
「このトースターはホームセンターの山新で7年前に4000円だったんだ」とか、「20年も使っているのによく壊れないなあ」とか、それを見た瞬間にやけに感心している自分がいることに気づく。
わたしもこれは見習ってトイレの便座を洗浄機能つきのものに交換したときに便座の見えないところに「2005年4月30日ホームセンター山新 29800円」などと書いてみた。わたしではない人が見たときのためなのかもしれないなあ、と思った。
先日お会いした本好きの方と話をしていたら、その方の持っていた本に沢山付箋紙が貼ってあった。
わたしは、その付箋紙の部分は気に入った場所ですか?と聞くと、どうやら図星だったようで、人にみせるのは恥ずかしいですね、と言っていた。
中に気に入った箇所があると付箋紙を貼ることがある。後でもう一度読み返したいときや大事だと思う部分に貼る。
赤鉛筆などで、線を引いてもいいのだが、受験生のようで気がひける。
付箋紙だと本を開かなくてもその本にはどれだけ自分が重要だと思った箇所があるか一目で分かるのでいい。
時々、自分がつけた付箋紙のページを見ると、なぜそこにつけたのか分からないときがある。
諸行無常。人生の中では心に響く言葉も時とともに移ろいゆくということだろうか。
本当に気に入った部分は鉛筆や万年筆で書くことにしている。
書くといってもノートに書くことはまれで、広告の裏に書いたりしている。
もちろん広告の裏にかいた本の中の素敵な文章はすぐに捨ててしまうが、書くとなぜだか心がすっきりとする。
本の読み方を人に問うことはしないが、きっと十人十色で色々な読み方があるのだろうと思う。
きっとどの読み方も正解なのだと思う。
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