本の感想:青い鳥

児童書のおすすめ本

青い鳥
モーリス=メーテルリンク(著)
青い鳥 (講談社 青い鳥文庫)

「幸せ」はどこか遠くにではなく、自分の目の前にあったんだ、という有名な結末のメーテルリンクの名作。
幸福の青い鳥を追い求めて旅をする兄妹チルチルとミチルの冒険。
わたしは小学校にあがる前のころ『青い鳥』を絵本で読んだことがあった。
わたしはその絵本をそれはそれは何度も読んだ。色々な国へ冒険し『青い鳥』を探す兄妹がうらやましかったからだ。
子どもの頃は、「幸せは一体どこにあるのだろう」という著者の根源的な問いにフォーカスがいっていなかったと思う。
楽しい旅行の物語がわたしにとっての『青い鳥』であった。

著者のモーリス=メーテルリンクは、劇作家である。
実際にこの『青い鳥』も原作は、六幕十二場の童話劇であるとあとがきに記されている。
わたしたちが親しんできた『青い鳥』は原作の童話劇を散文形式に書き直したものだということだ。
この秋(2012年の10月)に劇団四季がミュージカル『青い鳥』を上演するが、これが『青い鳥』本来の形なのだろう。
この本は、文庫本で277ページある。
わたしが幼い頃親しんだ絵本の『青い鳥』は、この中のいくつかの部分を抜き出したものに過ぎなかったのだ。わたしが好きだった冒険部分は絵本のそれよりかなり長い。
クリスマスイブの晩にとなりのお金持ちの家のパーティを見て楽しんでいる貧しい木こりの家の兄妹がこの物語の主人公チルチルとミチルだ。今年は親から「うちにはサンタは来ない」と言われてるのだ。
お金持ちの家のクリスマスパーティーでお菓子が出てきたのにすぐに食べない子供たちをみて妹のミチルが兄チルチルに質問をする。

「どうして、すぐに食べないの?」
「きっとおなかがすいてないんだろ。」
 ミチルはびっくりして、
「おなかがすいてないの?どうして?」
「あの子たちは、食べたいときには、いつでも食べられるからさ。」

食べ物が食べたい時にない、という貧しさをわたしたちは知らない。
わたしの子どもを含め、空腹であるということすら、知らずに生きている子も多い。
こうした貧しさが理解できるかは、現代においては疑問だが著者はこれを物語に登場する最後の国<幸福の花園>において劇作家らしく理解させようとしている。
『星の王子さま』で主人公の王子に友達のきつねがいった「本当に大切なものは目に見えない」という言葉がある。『青い鳥』では、これを目に見える形で登場させている。
<まずしい木こり小屋>、<思い出の国>、<夜の御殿>、<森>、<月夜の墓地>、<幸福の花園>、<未来の国>と現実から非現実へと様々な国を旅するチルチルとミチル。
とりわけ最後の<未来の国>の描写が面白い。
チルチルとミチルは、<未来の国>の子どもたちに「生きている子ども」として迎えられる。
<未来の国>では自分の生まれる順番が決まっており、生まれるまでは<未来の国>でしか存在が許されていない「生まれていない子ども」なのだ。時のおじいさんが生まれる順番を厳密に管理している。
生まれるためには条件があり、何か一つ「持って」いかなくてはならない。
それは、世紀の大発明だったり、人を感動させる芸術品だったり、自分が死ぬ為の病気だったりする。
何か持っていくものを<未来の国>での子どもたちは作っているというのだ。
「みんな何かを持ってこの世に生まれてくる」ということを聞いたことがあるが、それが病気であるというのはなんと悲しいことかと思う。
この<未来の国>で、チルチルに「おにいちゃん」といって近寄ってきた子どもは、その病気を3つも持って生まれてくるのだとさらりと言う。
メーテルリンクは時に優しく時に厳しく現実を見つめている。
わたしの記憶の『青い鳥』は、自分の家に幸福の青い鳥はいた、で終わっていたのだが、本来は違ったようだ。
青い鳥は、あることがきっかけで逃げて空に飛んでゆく。
長い旅を終えたチルチルがつぶやく。
「いいよ、泣くんじゃないよ。ぼく、また、とってきてあげるからね。幸福の青い鳥なんだもの。」
大切なものは目に見えない、といった人がいる。
本当は、いつも目に見えているのかもしれない。

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