学ぶ場所が学校である必要は、とうの昔になくなっている

ある高校生から
「自分は理系クラスなんで…」
という言葉を聞いた。
わたしは未だにそんな言葉が使われているのかと不思議に思った。


わたしが高校生のときも、「理系」クラスや「文系」クラスに学生が別れて勉強していた。
理系では、数学や理科を中心に勉強し、文系では、国語や社会を中心に勉強していた。
「自分はどちらかというと理系なんで…」と言われれば「ああ、この人は数学や理科が得意な人なんだな」と単純に理解していた。
大学受験でのクラス分けにおいては、ある程度分けた方が利便性があることは否定しない。
しかし、自分が理系の人間か文系の人間かで区分けしてしまうのはすでに時代遅れのような気がする。
なぜそう感じるのかと言うと、生きていく上では理系も文系もないからだ。
数学は大事だし、国語も大事だ。どちらが大事というものでもない。
生きていく上で必要なものの中に理系での勉強も文系での勉強もある、ということだと思う。
数字に弱いと宝くじを毎回買うことにもなりかねないし、文章の読み取り能力がないと法外な契約書にサインしてしまうことにもなりかねない。
片方だけ勉強して優れている人はトータルでバランスが取れている人に劣るのではないかと思う。
あくまで、人生を渡っていくにおいて、であるが。
オウム真理教の地下鉄サリン事件では、事件を起こした当事者にエリートが多かった。
どんなに化学式を勉強してもそれでサリンを作ってはだめだと思うし、どんなに文章能力が高くてもそれで脅迫状を書いたらだめだと思う。
わたしが理系と文系という言葉を時代遅れだと感じるのは、理系と文系以外にもう一つ別の柱が必要だと思うからだ。
総合的な力だ。
以前より知識は格段に楽して手に入るようになったのだから、これからはそれらの知識を使って何が出来るかを問う分野があっても良いと思う。
大学の研究室まで行かずとも、もっと身近な分野で役にたつ教育はできそうな気がする。
学ぶ場所が学校である必要は、とうの昔になくなっている。
それに気づいている人はまだ少ない。

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