『スーパーの店員生島隆志の話』/長崎 瞬哉
ムカデのように連なったショッピングカートをへいこらと押しながら「あと30分かぁ」と誰に言うでもなく生島隆志は溜息交じりにつぶやいた。もう20分もすれば、スーパーツルハシの店内からは、蛍の光が流れ出す。そうなれば客足も引けるだろう。「ああ、めんどくせ」隆志がひとり愚痴る。
おや?とカート置き場から店内に入った隆志は、目ざとく買い物かごが重なった一番上に一枚の紙きれを発見した。隆志は客の残していった(いや置き忘れたというべきか)そうしたゴミのような物に割と価値を見出している。あかの他人の物ではあるし、顔もわからない人物の残していった物ではあるが、それが逆に隆志の想像力を掻き立ててくれる。スーパーの一店員のひそかな楽しみといったら大げさか。隆志は他の店員がするように、ゴミを扱うような仕草でかごの中の紙を手に取って、スーパーツルハシと胸に書いてあるエプロン型の店員用ユニフォームのポケットにするりと滑り込ませた。紙を手に取った時に一瞬だけちらっと見えた文字からすると、どうやら客の残していった買い物リストのようだ。大抵かごの中に客が残していくような物はレシートかスーパーの玄関口で配っている出入り業者の広告チラシだ。しかし、今日の紙は違った。手書きの買い物リスト、隆志は誰に言うでもなく頭の中で反芻した。
トイレに行くふりをして後で見てみるか。これまで幾度となくした行為を隆志は想像した。とその時、店長岩上から声が掛かった。
「生島ちゃーん、ちょっといい?ゴメンね」
隆志はこの店長岩上を人間的に嫌いではない。しかし、隆志を呼ぶときの「生島ちゃーん」だけは嫌いだった。店長が最後に言った「ゴメンね」の一言が気になる。最初に謝るということは何かよからぬ事を押し付けられるに違いない。隆志はポケットの紙の事はすっかり忘れて店長岩上に向き直った。
「ボク、今から店内放送なのね。閉店特売の。申し訳ないんだけど、さっきトイレ側の入口でお客さん玉子パックおとしちゃってさ。ホント悪いんだけど、処理しといてくれる?あっ、そうそう、結構かわいい娘だったよ」
最後の「結構かわいい娘だったよ」の部分が余計な一言だと隆志は思った。
ところで店長岩上は、閉店間際の店内放送に命を懸けているらしく、どんなに忙しくても(他の店員たちが忙しそうにしていても)決して他の店員にその仕事をさせることはない。まあ、隆志も長いことスーパーツルハシで働いている関係上、そんな店長岩上のこだわりは十分承知している。「はい、分かりました。すぐ行きます」隆志は抑揚のない声で答えて岩上に踵をかえし現場に向かった。
入口では、15、6歳くらいの制服姿の少女が申し訳なさそうな顔をして待っていた。玉子パックを落としたのは、この娘だろうか。
店長の言う「かわいい娘」に期待しないではなかったが、実際にかわいいと隆志は思った。
「大丈夫ですよ。あとはこちらでやるんで」従業員スマイルで隆志は少女につげて、持ってきた特売の玉子パックを彼女に手渡した。「これ、店長からです」少女は、少し表情をやわらげ「ありがとう。あと・・ごめんなさい。それと・・・」何か言いかけて少女はじっと隆志を見つめた。何か言いかけた後、少女の目が何か語ったように感じたのは気のせいだろうか。「ありがとう。またね」と笑顔で言い残して少女は出て行った。隆志は首をかしげる。「またね」と初対面で言われる筋合いはない。はて?どこかで会ったことあるのかな。飛び散った玉子で汚れた床を掃除しながら、隆志は少女についての記憶を何とか手繰り寄せようと試みた。しかし、いつしかまた床を綺麗にすることに集中していた。
蛍の光が流れ始めたのが合図かのように、隆志はトイレに向かった。お客と従業員共用のトイレだが、この時間は誰もいなかった。
隆志はポケットから紙を出した。二つ折りになっているが、きちんと折られていないため最初の文字が見える。
「大根」
野菜からくるとはありきたりだな。隆志は思った。最初に「ビール」と書いてあっても見る気が失せるので、まあいいか。紙を開いてみる。
「人参」
「タバスコ」
辛い物好きか。
「豆腐」
「いんげん」
「ひき肉」
「鶏モモ」
けっこうバランスいいな。
「王子」
おうじ?おうじ。ああ、玉子か。隆志は頭の中で「王」の字に点を付け足した。でもこれを書いた本人も気づいていないのかもしれないな。十分ギャグになっているぞ。となるとさっき俺は床に散らばった「王子」を処理していた訳か。隆志は一人ほくそ笑む。
スーパーには、何でも置いてある。客の中には「カーワックスないの?」とか「扇風機置いてないの?」とか平気で言い出す輩もいる。(実際、置いてあるスーパーもあるにはあるらしい)そのうち「王子」の一人や二人売り出すかもな。いや、ないって。
「王子」で思い出したのだが、隆志も以前間抜けな書き間違いをしたことがあった。好きだったアーティストの曲で「遠く遠く」という曲名を「違く違く」と書いていたのだ。遠目には同じ漢字に見えなくもないが、他人に見つかったら恥ずかしいレベルだ。
人間の記憶やら注意力なんてそんなもんさ、と少し冷めた気持ちで隆志は紙に書いてある文字を最後まで読み進めた。
「ふりかけ(ポケモン)」
「プリン」
「チョコレート」
子供がいるらしい。
最後の手書き文字に隆志は絶句した。
「ありがとう。玉子ごめんね」
と、いうと?どういう事かな?ん?何でだ?先ほど玄関口で「またね」と言った少女の姿が隆志の目に浮かぶ。トイレのドアを威勢よく開けて駆け出す。隆志は走りながら紙の右下に書いてあった最後の文字を反芻する。「しおり」と書いてあった。隆志が2年前に死別した妻の名前。
2年前のあの日、妻のしおりは、スーパーツルハシに買い物に出かけたきり戻ってこなかった。交通事故だった。反対車線から急に進路を変えた居眠りの大型トラックと正面衝突したのだ。即死だった、と後から聞いた。その頃の妻のしおりは、30を過ぎて自分の見た目に自信がなくなってきた頃らしく、「また皺がふえてる」とか「あーあ、戻れるなら高校生くらいに戻りたいよねー」などとよく愚痴をこぼしていた。
入口までちょっと走っただけなのに、なぜか長い距離に感じられる。スーパーツルハシの入口には、客の落とした食べ物をあさるネコが一匹いるだけだった。
「戻れるなら・・・」か。
閉店間際、いく人かの従業員が買い物かごを持って自宅用の買い物を開始する。店内に客がいない時だけ許される行為だ。店長の岩上からもとくにお咎めはない。
隆志もスーパーツルハシの買い物かごを一つ手に持った。もう一方の手に一枚の紙が握りしめられている。
あの日買うはずだったもの。
隆志は、いち早く玉子パックを手に取った。
「またね」
少女の声と妻の声が重なった。
(おわり)
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