「なんとかなるって思ってたけど、なんとかならないのも人生だよ」
昔アルバイトをしていたパチンコ屋の主任にそう言われたことがある。
そのパチンコ屋には、色々な経歴をもつ人たちが働いていた。
今にして思えば、わたし自身もその色々な人たちの一部だったのだが、わたしは興味深く一緒に働いているパチンコ屋の店員たちを見ていた。
そのパチンコ屋には、アルバイトのわたしを含め店長以下8人の店員がいた。
日曜日以外は、客の入りがたいして良いとは言えないそのパチンコ屋での仕事は慣れてしまえば楽だった。わたしは平日フルタイムで仕事をし、土日はパチンコ屋でバイトという2足わらじの生活をしていた。
その当時のわたしには何かしたい事がある訳でもなかった。
それまでの自分…フラフラとしてすぐに仕事を辞めてしまう自分。そんな自分の悪い癖を戒める意味で、ただ仕事だけをする生活をしていた。当時のわたしは祝日以外毎日仕事だった。休みの日がない生活というのは、自分が歯車か機械になったような感覚になってくる。一ヶ月に一日休みがあればいいほうだったが、何をしていたのか憶えてはいない。パチンコ屋にしろ、その当時していた仕事にしろ肉体労働だったので、仕事から帰宅すると疲れてしまい次の日の為に夜遊びなどはしなかった。
本当に仕事だけをしていたのだ、わたしは。
このままこの生活が続いていけばつまらない人生だろうなあと思っていた。
わたしに「なんとかならないのも人生だよ」と教えてくれたパチンコ屋の主任は、以前競輪の選手をしていたようだった。一度アパートにお邪魔したときに部屋に競技で使うような自転車が飾ってあった。主任は凄くその自転車を大事にしているようだった。わたしは、主任から自転車をもらったことがある。
「おまえ自転車ないだろ。これ乗れよ」と言われてもらった自転車は椅子の位置がかなり高く乗りずらかったが、今でも使っている。主任はその自転車をどこかで拾ってきて直したものだと教えてくれた。
主任は昔、消化器など各家庭をまわって売り歩くいわゆる「押し売り」に近い仕事を東京でしていたようだった。その後、東京から茨城のパチンコ屋に仕事を移したのだ。田舎はなにもないけど人は素直でいいね、とよく言っていた。
わたしはそれ以上この主任のことを何も知らない。
当時「なんとかならないのも人生だよ」と言った主任の言葉をどこか遠くで聞いていたわたしは、40を過ぎた今、なんとか心で分かってきたような気がする。
店員の中には姉弟で働いている人がいた。姉は客の子持ちの男と不倫しており、弟は他のパチンコ屋に給料をつぎ込んでいた。パチンコ屋からパチンコ屋へと働く店を次々と変えてはいるが、仕事だけは変えない年配の人もいた。殴られて前歯がなく、太っちょの彼女がいる金髪の兄貴は、気のいいやつだったが、いつも口が臭かった。店長は、いつも月一で見回りにくる朝鮮語を話す社長にへこへこしていた。その店には定期的にヤクザの親分がきた。ヤクザの親分は、座った台が調子よく玉を出してくれると問題ないが、ちっとも玉がでないと一緒に連れてきていた愛人らしき女を蹴り飛ばしたり突き飛ばしたりしていた。一度女が腹を蹴られたときに出した「ぎゃっ」という声が忘れられない。親分はそれでも治まらない時は、店の外の駐車場にパチンコ玉をばらまいて帰っていった。
わたしは何度か親分がばらまいたパチンコ玉をステッキのような先に磁石がついた道具で拾った。それもアルバイトのわたしの仕事だった。
わたしにとって、けっして幸せそうには見えないパチンコ屋での人間模様は、未だに心の中の一風景としてあって消えることはない。
主任の「なんとかなると思ってたけど、なんとかならないのも人生だよ」という言葉とともに、ときどき思い出す。
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