昭和の言葉に逆境を生き抜く知恵が1つあるが、自分が「逆境である」かどうかは、自分にしかわからない

いつもの図書館で返却した本に、自分のしおりを挟んだままになっている、と以前書いたことがある。
いつだったか、また自分のしおりが挟んである本を読んでいたら、気になる言葉がのっていた。気づいた時はメモと思い、自分では紙とペンを持っていなかったので、図書検索用のパソコンの横に置いてあるメモ用紙に書いた。
そのメモのことはすっかり忘れていた。


今日着た上着のポケットに入っていた紙がそれで、こう書いてあった。

逆境をゆったりと学ぶ心境
「風車 風が吹くまで 午睡(ひるね)かな」/広田弘毅

この句はいろいろな人が、自分の意見を書いている有名な句だ。
広田弘毅は、昭和の外交官であり、政治家だ。
この句は、広田弘毅が左遷にあったときに詠んだ句で、不遇の時代に、自分自身を風車に見立てた句となっている。
自分が風車だとしたら、風が吹くまでは、じっとしているしかない。
「その時」が来るまで、自分自身の身体をいたわって待つ。
逆境においては、そういう心境も必要だ。

うまくいかないときに、かえって色々と動きすぎて、風車が風車でなくなっては身も蓋もない。
わたしは、風に吹かれていると気持ちがいいので、仕事中や休日家にいるときなどに、時々外にでてぼうっとしていることがある。
でも、わたしは風車ではないので、風車のように、無心にはなれないように思う。
それに加えて「逆境である」というのは、多分傍目にはわからない状態のように思える。
自分が自分を振り返ってみて思う心境だと感じるからだ。
ただ、時々風に吹かれたり自然に身を任せたりしていると、そういったことに気づきやすくなるのではないかと思う。
「自分」が「自分でいる」というのは、出来そうでいて、なかなかでないことだ。
それは、「逆境である」ときに、それを認めようとしないのに、どかか似ている気がする。

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