人は人に名をつける

小学生時分のわたしは、自分の名前が好きではなかった。名前の最後に「一」がつくことがそもそもいやだった。単純にかっこ悪い、と思っていた。
父に名前の由来を聞いた時、「修行して…」と言い出されて、「修行」という言葉の重みに心が「うわっ」となった記憶がある。

小学生の時、担任の先生から自分の名前について調べてくる、という宿題が出された。自分の名前の由来を親から聞き皆の前で発表するのだ。
わたしの名前は「修一」。父が名付けた。
修行して一番になりなさい」という意味だ。

名は体を表す、という。
しかし、40もとうに過ぎたというのに、わたしは未だ自分の名が体を表しているようには思えない。
修行もしていないし、一番にもなっていない。

「名前」とは何だろうか。
わたし自身、二人の子の名付け親である。
長男は「直也」とつけた。
「まっすぐに、素直に生きていって欲しい」、という願いからだ。
長女は「知夏」だ。
こちらは少しだけ複雑で、冬に生まれた逆手をとった。(わたしがひねくれ者だからだ)
「知」という漢字には、「沢山経験を積む」という意味がある。
「夏」には、「元気に」という意味がある。
二つの漢字を合わせて、「沢山経験して、元気に生きていって欲しい」という願いだ。

あらためて、自分が我が子につけた名前を考えてみる。
わたしが子に授けた名は、我が子に対しての願いだったのか。はたまた、自分への願いか、それとも戒めか。
今のわたしには、そのどれもが正しいような気がするのだ。

親から授かった「名」は、どこか挑発的だ。
名が体を表すようになれるかどうかはわからない。
ただ、名に恥じぬよう生きること。
それは、人にとって挑戦しがいのあることなのだと、最近思う。

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