ショートショート:何かが触れた気がした

ショートショート:何かが触れた気がした 長崎瞬哉(詩人)

『何かが触れた気がした』/長崎瞬哉

 てっきり彼女がわたしをひきずりこもうとしているのだと思った。でも違った。彼女の目的はわたしと入れ替わること。ううん、違う。入れ替わるんじゃない。
――彼女はわたしになりたかったんだ。

§

 夏で、暑い日だった。

「えっ!」と驚いて友香が声を上げたのは、何かが後ろを通り過ぎたような気がしたからだ。気がした、というより実際に触れた。すねの後ろあたり、ちょうど猫が甘えて体をよせてくるような。そうだ、ちょうど猫の毛が触れたような気がした。なんだろう?振り返ったが、何もない。でも感触だけは残っていた。「え、何?」お茶の間にいた母が友香の声に反応する。
「どした?また蚊に刺された?」
 友香は洗面台で夕食後の歯磨きをしている最中だった。友香は「うーん」とだけ答えた。
 確かに何かが触れた気がした。私の足元にいたのは一体何だったのだろう?うがいをしながら自分の顔を鏡で見る。リアルな感触だけが、まだ足元に残っていた。
「蚊取り線香、たこうか」
 母の呑気な声が聞こえてきた。

 翌日。
 あと3日もすれば夏休みということもあって、クラスメイトもどこか陽気だ。掃除中なのに友香のとなりでも、男子2人組が夏休み中、海にするかプールにするかのくだらない言い争いをしている。男子2人は、おしゃべりをしつつも「雑巾がけの」フリはしているようだった。
「今年は最後の夏休みだねー」仲良しの樹里が黒板消しを手に話し掛けてきた。樹里の言った《最後の》という意味は、《気楽に過ごせる最後の》という意味だ。友香たちは現在高校2年生。進学クラスにいる友香や樹里にとって来年は大学受験の年だ。今は二人とも「受験」という言葉を口にしたくはなかった。友香はモップ掛けをしつつも樹里に答える。「だねー。夏休み、なんか予定ある?」
 掃除時間、先生は生徒達がさぼっていないか割と厳しくチェックしてくる。特に友香たちの担任田上は内申書への評価をちらつかせてくるからやっかいだ。生徒は生徒で対策を講じている。何か掃除用具を持って動いていれば、掃除をしているように見える。友達とおしゃべりをしつつも手だけは動かしている生徒が多いのはそのためだ。仕事中の大人がパソコンの前でうーんとうなりながらキーボードやマウスをいじくり回してネットサーフィンしているのと何ら変わりはない。時々、友香は「しているフリ」の方が疲れるのでは、と思う。

 友香のモップ掛けも終わり、水道口まで行く途中、同じくモップを持った女子生徒とすれ違った。
「香取り線香、たこうか」
すれ違いざま、その女子生徒は、確かに友香にそう言った。友香はぎょっとして、すぐに振り返る。
女子生徒は廊下の突き当りを曲がってすぐに見えなくなった。顔こそ見えなかったが、友香と同じ位の髪の長さで、2年生の目印である赤いラインの入った上履きだったのがかろうじて見えた。
「何あれ」誰に言うともなしに友香はつぶやいていた。「ともかぁー。やっぱ友香はプール派でしょ」先程の男子2人組に誘われたのか、樹里が追いかけてきて友香に同意を求めてきた。
「やれやれ今年はプールか」

 自宅に帰ると靴が一足いつもより多い。だれか来てるのかな?ん?私の靴にそっくりなやつじゃんか。
「ただいまー」
 靴を脱ぎ棄てた友香はお茶の間に向かう。この時間なら母と兄は帰宅している時間だ。洗面台の前を通りかかった時、人の気配を感じた。人の気配、と思ったが、それは鏡に映った自分だった。友香の右手に洗面台がある。鏡には友香自身が映っていた。夕方で少し薄暗いからか、鏡に映った自分も薄暗く陰気に見える。友香は、自分が自分ではないように見えた。 何で今日に限って人の気配を感じたんだろう?少し不思議だった。

 母は買い物にでも出かけているのか不在だった。兄が一人ソファーで携帯をいじっている。
「ただいま。かあさんは?」
「ん?あ、さっき出てった。買い物かな?」携帯の手は休めず兄は答える。「それより、なんでまた、ただいま?」
「はっ、どういう事?今帰ったんだけど」
「...ってさっきも、ただいまって俺に言って、かあさんは?って聞いたよね。もしかして、わざとやってる?」
「え?何それ?あっそうそう、誰か来てるの。玄関の靴?」
 兄は携帯をソファーに投げ出し、不思議そうな顔で友香に言った。
「誰も来てない。俺とおまえしかいない」
「カチャ」と玄関を開ける音がした。「ただいまー。遅くなっちゃった。夕飯の支度手伝って」母だった。友香は兄の言葉に引っ掛かりを覚えたが、お腹が空いていた。夕食の献立の方が気になる。そんな年ごろだ。兄の言った事はすっかり忘れて友香は台所に向かった。

 夕食の支度は、以外にも兄が活躍した。バイト先で習ったオムライスを作ると言って携帯の映真を見ながら「火加減が大事なんだよ」などとそれらしき御託をのべ作っていく。父が途中で帰宅したので、最後は父の手でオムライスが完成することになったが。父は昔洋食屋でアルバイトをしていたため洋食には少しうるさい。父に手柄を取られた兄は少し不満そうだったが、出来上がったオムライスは美味しかった。

 夜、洗面台で友香は歯磨きをしている。
 鏡には自分が映っている。
 一度うがいをした後、鏡をみた。鏡の自分自身と目が合う。鏡の自分を見ているのに、誰かに見られているような気がして、友香はすぐに鏡から目を逸らした。
 もう一度うがいをして鏡をみた。誰かの後ろ姿が映っていた。誰か?違う。誰かじゃない。着ている服は友香と一緒。背丈も一緒。体型も...私、ワタシ。私の後ろ姿。鏡でしょ。これ。鏡に自分の後ろ姿は映らないよ。すでに友香は、鏡に映る後ろ姿の自分を自身だとは認識していなかった。

 人は一生、自分の姿を自分自身の目で見ることは出来ない。
 鏡に映った自分を見ることはできるが、それは目で見た自分じゃない。鏡に映る自分は左右反対の自分だ。
 鏡には友香の後ろ姿が映っている。
 鏡のワタシがゆっくりと振り返った。
 私だった。
 鏡の中の私は、少し口元がゆがんでいて笑っているように見えるのは気のせいか。
 でも本当の私は笑ってなんかいない。むしろ幽霊でも見たかのような驚いた顔をしている、はずだ。

「驚いた?」驚くほど冷たい声だった。
「誰?」と声に出してみたが、変な感じだ。だって友香は自分に対して誰?と言っているのだから。
 友香は色々と考えを巡らした。なぜこんなB級ホラー映画みたいな現象が目の前で起きているのか。ドッペルゲンガー現象というのは聞いたことがある。自分そっくりの人に会ってしまう現象だ。でも幻覚の一種じゃなかったか。いいや、何かの本で読んだのは世の中には自分と見た目がそっくりな人が3人は存在していて、その中の2人が出会うと死んでしまう、とか。じゃあ私死ぬの?

 来年が受験地獄だとしても、友香は今ここで死にたくはなかった。だってまだ彼氏だっていないんだよ。もっと、もっと色んなことしたいよ。樹里と約束したケーキバイキングだってまだ行ってないし。そんな心の声とは裏腹に友香は驚くほど冷静だった。鏡の人物に問いかける。
「何が目的?」
 鏡の友香が答える。
「目的?ああ、割と現実的に考える事できるんだ。あっ、ごめん。現実じゃないね。こっちが現実だった。いいかしら、あなたは私の取り替え可能なお人形さん」
「どういう事?あなたは鏡の中にいるのよ。鏡の中は現実とは違うわ」
 鏡の友香は、さらに冷たくなった声で答える。
「そう考えるのも無理はないわ。だってあなた生まれた時からそこにいるものね。うーん、そうねぇ。こういうのはどうかしら。あなたは私のバックアップ。友香さんって、コンピュータに詳しい?大規模なコンピュータシステムになればなるほどバックアップは大切なの。個人が使うパソコンのようなものじゃなくて、もっと大きなもの。皆が使うインターネットなんか分かりやすいかしら。大事なデータは本体のデータとは別の安全な場所にバックアップを作っておくの。バックアップと言っても時々データをコピーするんじゃないわよ。時々じゃだめ。今この瞬間もバックアップが必要なの。私がオムライスを食べている時、バックアップもオムライスを食べている。そうなの。瞬間瞬間を同時に記録するバックアップが必要なのよ」
「それがわたし、という事?さっき食べたオムライス、あなたも食べたと言う事?」
「ちょっと違うわね。よく聞いて。オムライスを食べたのは私で、あなたはオムライスを食べたという記憶の蓄積があるだけ。だって、あなた私のバックアップだから」
 友香も負けてはいなかった。
「もし、私がバックアップだったとして、なんで今更、私にそんな事を言うの?鏡の中のあなたが!」
 鏡の友香が一瞬だけ遠い目をした。
「鏡?アハッ、そうか、教えてあげる。鏡の中にいたのは、あなたなのよ。バックアップが必要な時はどんな時か知ってる?本体に異常事態が発生したから。そう、私はシステムの故障で消えかかっている。時々情報の伝達に時間と空間の行き違いが生じている。そこにい…ないものが見え…たり、聞こえたり、猫…がいない…のに、じゃれてくるような気…がしたり…だ……か…ら、バッ……クア…………」
 一瞬、ディスプレイが突然の停電で消えるかのように鏡の中の友香がブラックアウトした。友香の目の前の鏡、いや世界がすべて真っ暗になっている。そう思ったのもつかの間、友香の視界から世界全体がプツッと消えた。

 友香と樹里はクラスメイトの男子2人と市営プールに来ている。
 友香は更衣室の鏡に映った自分に問いかける。
 そんな顔しないでよ。また元に戻れたんだから。時間と空間。情報の伝達に全く問題はないわ。家に帰っても先に自分が帰ってる、なんてことはないわよ。見えない猫もいない。何か不満?あなたは私のバックアップ。永遠に私のバックアップ…
「ともかぁー。ねえ、あれ行こ行こ!ウォータースライダーけっこう楽しそう!」樹里が私を呼んでいる。いや、呼んでいるのは私じゃない。彼女だ。
「じゃね、皆が待ってるから」友香は元気に駆けて行った。

 この冷たい壁一枚。私は通りぬける事が出来ない。この感情も記録された情報。私が経験した事のない情報。情報は常に記録され蓄積されていく…
 あなたの記憶は本物?
 そう。だったらいいわね。何かが後ろを通り過ぎたような気がしても振り返らないほうがいいわよ。だって、もしあなたがバックアップだったら……

 夏で、暑い日だった。

(おわり)

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