ホラー小説というジャンルに分けられているが、わたしはこの沼田まほかるという小説家が描く作品は、人間なら誰しも持っている「誰にも伝えたくない心の闇」を扱っていると思う。
なにか人間のみたくない暗い部分をリアルにみせつけられる。そして引き込まれていく。
アミダサマ
沼田まほかる(著)
「沼田まほかる」という著者が気になっていた。
書店で、『ユリゴコロ』という題名の小説を立ち読みしたことがあり、その時からだ。
50代でホラーサスペンス大賞を受賞してデビューしたという著者は異色の経歴を持つ。
主婦、離婚、お寺の住職、建設会社経営、小説家、と歩んできたらしい。
もともとお寺のひとり娘だったからか、本書でも仏教における慈悲の心というものの描写が秀逸になされている。
ホラー小説と仏教。すれ違いしそうな組み合わせだが、日本ならではの小説といえる。
わたしは読み進む中、日本のホラー映画である『仄暗い水の底から』を思い出した。
大人になる前に亡くなった小さな女の子の怨念が怖さと悲しさを感じさせる映画だ。
『アミダサマ』に登場するミハルという女の子もまた悲しい経歴をもつ5歳の女の子だ。
タイトルのアミダサマは阿弥陀様のことである。
著者はいくつかの言葉をカタカナで表現する事で、言葉に本来の意味とは別の意味を持たせている。
「声」を「コエ」としたり、「印」を「シルシ」とするなどだ。
著者の住職であった経験が生きているに違いない登場人物のひとりが冒頭から登場する住職の浄鑑(ジョウガン)だろう。
ミハルに対しこんなセリフがある。
「どんなに言葉であれこれ考えても、言葉は言葉の範囲を超えられないだろう。阿弥陀様は言葉なんかではとても表せないんだよ。…」
しかし、その「言葉」を使って著者が紡ぎ出す物語は酷く残酷だ。
読んでいるうちに登場人物の誰に対しても感情移入し、いたたまれない気持ちになる。
「いたたまれない」
これがわたしのこの小説に対する率直な感想だ。
ミハルに魅せられた男、悠人(ユウト)が世間に対し、自分に対して自暴自棄になる。
なぜ自暴自棄になっているのか自分でも分かっているのに分かろうとしない悠人はきっとわたしたち自身だ。
その悠人に犯され孕まされ殴られてもついていこうとする女律子(リツコ)もまたわたしたちのある部分なのだ。
ホラーという形式を取っているが、この小説に登場する人物は脇役を含めてみな一様にわたしたちのいやな部分をさらけ出している。
最後までどこか「いたたまれない」気持ちが続いていく小説だ。
そのいたたまれなさを早く解消したいと先を読み進めた。
最後に心に残った言葉があった。
子供は、自分自身の願望しか信じない。
恐ろしい言葉だ。
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