300字小説「笑顔」

長崎瞬哉(詩人)
「笑顔」

酢工場で働いていたとき、年長の先輩が皆に話してくれた。

「昨日、帰りの電車で近くに座ったガキが隣の母親に言ったんだ。『お母さん、酢昆布の匂いがするね』って。ちょっとして、酢昆布はオレのことだって気づいたよ。ハッハッハ」

先輩につられて私も笑った。一緒に話を聞いていた職場の同僚も笑っていた。

それから何年かして私は職を変えた。
家で風呂に浸かっているとき、あの日の先輩の話を思い出した。

「お母さん、酢昆布の匂いがするね」

子供の声とともに、かつての私の職場の光景が、酢昆布の匂いとともに蘇った。

そういえば、あのとき先輩は笑いながらもどこか寂しげな眼をしていた。
笑っていた同僚も私も、同じ眼をしていたんだと思う。

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