「これからは、心の時代です。精神的豊かさを目指す時代に入りました」
多くの著名人や新聞のコラムなどで最近目にする言葉がある。
最初にこの言葉に接したときは違和感は感じなかったが、何度も接するうちに「いや、ちょっとまてよ」と思い始めた。
【写真/2012年6月30日 なみだ目パン】
モノがない時代をわたしはほとんど知らない。
生まれたときからテレビや洗濯機、冷蔵庫などのかつて「三種の神器」と呼ばれた電化製品は家にあった。
わたしは生まれたときから物質的豊かさに恵まれていたといえる。
車で旅行にも行くし、スーパーで好きな食材も買う。
スマートフォンで映画のチケットの予約をする。
家の中には、必要なものから必要のないものまでありとあらゆるものが揃っている。
こんな物質的豊かさのある暮らしをやすやすと手放したいとは思わない。
ただし、これはわたしの中での話だ。
次に「心の時代」についてである。
モノがあふれ、豊かにはなったが、その代わりに以前からあった人間同士のつながりが薄れてきた。
物質的豊かさを求めるあまり、親は長時間労働し子供と接する時間は少なくなってきた。
モノを与えてくれるだけの存在、と親に対して抱いている子も多い….などと喧伝されている。
「これからは、心の時代です。精神的豊かさを目指す時代に入りました」
に対して、否定はしない。
物質的豊かさも大事だが、心と精神の安定があってこその人生だ。
しかし、わたしが思うのは、それでは「心」が満たされ、精神的豊かさが得られたらどうなるのか、ということだ。
人間は一つの欲求が解消されるとその状態になれてしまい、以前の目標だったような状態が訪れても満足を感じなくなる生き物なのである。
わたしが「これからは心の時代です…」に違和感を覚えるのは次の理由からだ。
モノがあふれ豊かになりました。次は心の時代です。心も豊かになりました。じゃあ、次は…といつまでたっても結局求めているものが変わるだけで根本的には何も変わっていない気がするからだ。
終わらない遊びをしているようだ。
モノも豊かな状態でさらに精神の豊かさも追い求めるのだろうか?
それで根本的な解決になるのかなあ。
いつも木だけをみているだけなんじゃないだろうかと思ってしまう。
「これからは…」と全体的なことを言うのであれば、木だけでなく森も見る必要はある。
そういうわたしは、いつもとなりの木を見ているだけの気がする。
コメント