『なりきる』ということ

『なりきる』ことが出来る人は強い。
人は人生の色々な場面で『なりきる』を演じ分けているように思う。


わたしは先生の仕事をしているので、ふだん学生の前では先生になりきっている。
先生らしく振舞うというか先生ならこういうだろうという考えをもって動いていたりする。
自宅に帰ると父親になりきっている。父親ならこう言うべきだろうとか父親だからこうするというように行動も父親らしく振舞っている。表情もだ。
仕事や家庭ではなんとかなりきることが出来る人でも場が違うとなかなかなりきれなかったりする。
一般庶民が突然「悪役をやってください」とか「アイドルのように振舞ってください」と言われるとすぐにはなりきることが出来ないようになりきるには覚悟が必要だ。
なりきっていない相手を見るのはかなりこちらも恥ずかしい気持ちになるものだ。
小学校の演劇でも、役になりきれず少しでも恥ずかしいというような感情がでてしまうと見ているほうも白けていく。
『なりきる』というのは、本当にそうであるように振舞うことだ。
サッカー選手でなくともサッカー選手のように振舞うとか、将軍様じゃなくても将軍様のように振舞うということだ。
以前、日光江戸村に遊びにいったことがある。
あまり期待せずにいったのだが、わたしはかなり楽しんだ。
わたしはそこで『なりきれるプロ』に遭遇した。
日光江戸村は、その名のとおり江戸時代を模したテーマパークだ。
江戸時代の街並みを再現した建物や風景があり、実際にお殿様やお姫様が家来を引き連れて歩いていたりする。
実際に道端で商売や見世物をやっている。
そこにいる誰もが演じているのだが、それぞれが役になりきっている。
将軍様やお姫様は何もしゃべらなくても身体の回りにオーラが出ている。
将軍様やお姫様のまわり3メートル圏内は空気が違うのだ。近づいていくと感じる「何か」があった。

『なりきる』と特別に何かをしている訳でもないのに、ただそこにいるだけなのにとてつもない存在感があることに気がついた。
山田さんが「自分は山田だから」と思えばやはり山田になるのだろう。
山田さんが、「俺は将軍だから」と信じなりきってしまうとそこには山田さんではない別の存在が顔をだすのだろう。
自分自身が白けることのないように『なりきる』ことは必要かもしれない。
でもどうせなりきるのなら、かっこいい役がいいなぁと思う。

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