身体も道具だ

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つくづくインターネットは便利な道具だと思う。
しかし、わたしはインターネットに、どこかしら違和感を覚えるのだ。

インターネットを使うようになって良かった点は、ちょっとカタカタ手を動かせば(最近では、キーボードよりグーグルに話しかけている人も多いかもしれないが)一瞬で知りたい情報に辿り着ける点だ。このことだけでも凄い進歩だ。
昔なら何十年もかかって調べたことが、今なら一瞬の出来事だ。

では、悪くなった点は何か。
それは、人が身体を使わなくなったことだと思う。
率直に述べるなら、インターネットを使うことで、人々は歩かなくなった。

「調べる」という行為には、体力が必要だった。
図書館に行くにしろ、人に聞くにしろ「調べる」前にその場所まで足を使って辿り着かなければならない。現地まで行った後にやっと「調べる」ことだできるのだ。たとえ、現地に行っても自分の知りたかった情報に辿りつけるかは未知数だ。昔はそんな事に時間を費やしていた。
スマートフォンに話しかけるだけで、「調べる」という行為を終わりにしてしまったインターネットという道具は何者だろうか。

もし、身体を使わなくなったことを人類にとって進歩と呼ぶのであれば、わたしは機動戦士ガンダムに出てきた「ニュータイプ」という概念でつじつまを合わせておきたい。
ニュータイプはさておき、わたしが記憶している楽しかった事、辛かった事、くやしい気持ち、幸せな気持ち、全てはインターネットの検索結果で得られたものではない様に感じる。記憶に残っているのは自らの身体を使ってした行為である。
記憶に残っていくのは、結果ではなくその過程である。道草をした分得られるものの方が多い。若いうちなら尚更だ。

先日、友人の息子である小学五年の男の子が尋ねてきた。
何やら聞きたいことがあるらしい。わたしにではなく、地元に昔から住んでいるわたしの妻に聞きたかったようだ。それは、地元の歴史についての質問だった。残念ながらその質問に妻は答えられなかった。知らなかったようだ。
コンピュータに詳しいわたしも歴史にはうとい。それならネット検索で、と言いたいところだが歴史の教科書にも載っていないような小さな歴史はインターネットにだって載っていない可能性が高い。なぜなら歴史の証人がすでに故人となっていたり、インターネットをそもそも使っていないこともあるからだ。
人間の脳や死んだ人の脳まで検索できるような時代がくれば、また次のステップに進むのだろうが、今はそんな時代ではない。

こんな時、ネット世代はTwitterでつぶやいて誰かに教えてもらうのだろうか?
教えてもらえなかったら、諦める。そんな人も多い。
わたしは諦めが悪い人間だ。わたしなら身体を使う。
とりあえず近所の歴史が詳しそうな人に聞きに行く。身体を使って歩くのだ。
その過程が面白い。
行く途中、綺麗な花が咲いているかもしれないし、ガマガエルに出会えるかもしれない。
冒険は身体を使うから面白い。
記憶とは人生であるし、人生とは身体を使ってきた記憶にほかならない。
人が使う最後の道具は自らの身体だと信じたい。

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