記憶における物語

そういう気持ち

自分の記憶があやふやだと感じるようになった。
小学生のときに、すらすらと書けた漢字を思い出せない。立ち上がった瞬間、今何をしようとしていたのか忘れる。
ただの老化現象と言ってしまえばそれまでだが、ここは一つ別の角度から人間の記憶について考えてみようと思った。

例えばコンピュータは、記憶装置の容量には上限がある。
500ギガバイトのハードディスク(最近ならSSD?)には、500ギガバイト以上は記憶できない。
人間の記憶容量にも上限があるのではないか。あるとすれば、長年生きているわたしのような人間の場合、記憶容量は上限に近づきつつあるのではないか。

パソコンやスマホは記憶容量が残り少なくなってくると、処理が重くなってくる。
何かちょっとした「処理」をするにも処理に必要な情報を記憶することが必要だからだ。
そんな場合、コンピュータは残り少ない記憶容量を確保しようとして処理が遅くなってくる。

わたしが小学生のときに憶えた漢字を忘れたり、思い出せなくなったりするのも同じ現象なのでは?
立ち上がった瞬間、今しようとしていたことを忘れるのは、立ち上がるときに記憶装置の容量の一部を使ってしまったからでは?
ただの推測だ。

ただの推測を更に押しすすめてみる。
パソコンやスマホでデータがいっぱいになったらどうするか?
必要なものを残し、不要なデータは別の場所にコピーするかあるいはゴミ箱に捨てて消去するはずだ。
人間は同じようにできるだろうか?
コンピュータなら、それを扱う人間が主導して不要なデータを消去できる。
対象がコンピュータなら、人間は不要なデータを取捨選択して消去できる、という意味だ。

わたしの記憶容量がいっぱいになってきたら、それをわたし自身が取捨選択し、不要な記憶として消去できるだろうか?
コンピュータとは違い、人間の記憶は意識して消去できない。(将来できるかもしれないが)
対象が自分自身の場合、人は不要なデータを取捨選択して消去できない。

わたし以外の第三者が、わたしの記憶の消去を担っていると考える方が自然かもしれない。
人間であるわたしの記憶を操作している第三者(人か神かは分からないが)いるわけだ。

漢字の記憶を消されるぐらいならいいけれど、自身の根幹に関わる情報が消されてしまったら怖い。
その時、わたしは認知症と診断されることもあるかもしれない。

せめてわたしの記憶の管理者には、不要なデータの消去には慎重になって欲しいものだ。

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