現代の罪

俳句のちょっとしたニュアンスは、日本で生まれ育った人にしか伝わらないのではないか。
芭蕉の『夏草や 兵どもが 夢の跡』のような句に出会うと、日本人に生まれて良かったと素直に思えてしまう。
わたしは俳句が好きだ。

俳句を「毎日一句作ろう」と意気込んでみたが、出来ない。
ただ考えていても、出来ないものは出来ない。浮かぶのはつまらない句ばかりだ。
ところが、先日俳句が自然に出てくる場面に出くわした。

わたしは週末に、近所を走ることが多い。近所は、自然の田舎道だ。田んぼや林の中を走っていると自然に(それこそ自然に)俳句が浮かぶのだ。
走っている最中に白さぎが目の前を横切ったりする。雲が流れていく。日が落ちる。風に吹かれた枯葉が朝日を浴びてキラキラしている。その時、わたしも芭蕉のように(レベルが違うが)五七五で感じることが出来るのだ。

俳句には、季語がある、という決まりがあったが、そもそも俳句は自然から生まれたものなのだ。わたしは便利な生活に毒され、すっかり目の前にある当たり前の自然を忘れかけていた。
多感な時期を自然の中ですくすくと育った子の多くは、大人になってからの問題解決能力に優れている、という話を聞いたことがある。子どもの頃、自然に触れることが少なかった子は、いざという時の対処が出来ないのだそうだ。もし、そうであるなら、子ども達に自然や自然に触れる環境を与えないことは、犯罪に近いと言えるのではないだろうか。

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