クララとお日さま
カズオ・イシグロ(著)
クララとは主人公となるAIロボットの名前である。
クララの設定はAFと呼ばれるロボットだ。AFは人工親友という意味らしく、子供(とりわけ思春期の子供だろうか)の相手をするために作られたロボットという役割だ。冒頭ではクララをはじめとしたAFたちが店のショーウィンドウに立って売られているシーンから始まる。
店には子供を連れの家族などが訪れたりしている。もちろんクララのようなAFは高価なのでどんな子供でも手に入れられる訳ではない。クララを見て恨めしそうに去っていく子供たちもいる。
世界的に「格差社会」という言葉が躍っている昨今、この物語にも格差は存在する。
まずはクララたちAFにおける格差。AFにも型がありクララはB2型、最新のAFはB3型なのだ。作中の話をつなぎ合わせるとB2型はクララの言うお日さま(太陽光による発電を指すと思われる)の吸収に難がある筐体が存在する。また運動能力が最新のB3型に劣り、B3型では可能な匂いを感じとることが出来ない。当然金銭的に余裕のある親は子供にAFを買い与える際、B3型を選ぶ傾向にある。
子供たちにも格差が存在する。向上処置を受けた子供たちとそうでない子供たちだ。クララと一緒に過ごすことになるジョージーという女の子。彼女は向上処置を受けた子供だ。ジョージーの友人で男の子のリックは向上処置を受けていない子供だ。向上処置とは何なのか?物語では詳しくは説明されていないが、現代で言うなら教育をきちんと高等教育まで受けた子供とそうでない子供との差にも見える。ただ向上処置には弊害もありそうだ。クララと過ごすジョージーは体が弱っている。
クララとお日さまでは、ジョージーやジョージーの母親などが格差社会に対して戸惑いながらも立ち向かっていく様子が描かれている。救いがあるとすれば、子供であるジョージーに向上処置を受けさせたジョージーの母親と向上処置を子供(リック)に受けさせていないリックの母親が仲の良い友人として描かれていること。カズオイシグロは格差社会にNOをつきつけてはいない。
描き方として興味深かった点が1つある。クララの知覚に関する描画だ。クララはロボットなので当然人間と同じようには身の回りを認識していない。1つの与えられた使命があってそのためにはどんな行動がベストかを常に探っている。
この場合の使命とは、クララに限って言えばジョージーが気分よく過ごしていく為にはどうすべきか?というようなことだ。だから「ジョージーにとって何がベストか?」がクララの行動を左右してくる。もしクララが相手の差し出した花を見て綺麗だと感じていなくても、相手には「綺麗ですね」と口にするようなことがクララ内面では常に起きている。
クララは相手の表情や行動に敏感だ。相手の表情によっては、クララの認知に四角い枠ができる。四角い枠は沢山できることもあり、その中に相手の表情のある部分がクローズアップされていたり、あるいは今目の前に無いが関連性の高いものが枠の中に投影されていたりといった具合だ。スマートフォンのカメラで複数の人の顔をとらえて四角い枠が出来る機能の拡張版みたいなものか。
全編を通じてクララがお日さま(太陽の光)に対して特別な感情を持っていることが分かる。お日さまを神様と勘違いしてクララがお日さまに願いを伝えるシーンなどは子供じみていてこっけいだ。でもそのこっけいさがわたしたち人間なんだと気づかされる。
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