「ぼくは思うのだ。どんなに成績が良くて、りっぱなことを言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がする」
ー 本書より
僕は勉強ができない
山田詠美(著)
本書のタイトル『僕は勉強ができない』は、主人公でもある17歳の男子高校生「時田秀美」が転校先のクラスメイトに自己紹介で使う言葉だ。
わたしは、この素直でいて胸にズキリとくるタイトルに惹かれ本書を手に取った。
というのは嘘で、実はHさんという素敵な女性が、この本をわたしの主催する『本と集う会』に寄付してくれたのがきっかけだ。
たぶんこの縁がなかったらわたしは一生山田詠美の作品を読むことはなかったと思う。
今回本書を読んで良かったと思う訳で、つくづく出会いというものは大事だと実感した。
わたしは、山田詠美という小説家らしからぬ印象を持つ著者を昔から知っていたのだが、なぜか彼女の作品を一冊も読んだことはなかった。
なぜかというと、著者の山田詠美が大人の女性というか男をよく知っていそうな気がして(それは著者のもつ奔放な見た目からなのであるが)きっとわたしには合わないと勝手に決めつけていたからだった。
わたしが、その女性とは合わないにしても、その女性が書いた小説がわたしに合わないとは限らないだろうに、間抜けな話である。
あらためて自分自身の人間レベルの低さを痛感した。
主人公の時田秀美は、母、祖父と3人で暮らす高校生である。
サッカー部に所属しているが、部活動に熱心というわけでもない。桃子さんというバーで働く女性が彼女である。
母親は朝帰りも多く、恋多き女性であるが、時田秀美はそんな母親を悪くは思っていない。むしろ誇りに思っている。
祖父は祖父でいい歳をして60、70のおばあちゃんに女性を感じている。
家庭環境からして不良になるんじゃ、という設定が前提にあるのだが、著者はいい意味で読者を裏切ってくれる。
たぶん、どんなクラスメイトよりも時田秀美は物事に対して「素直」なのだ。
たとえば冒頭のセリフ。
「ぼくは思うのだ。どんなに成績が良くて、りっぱなことを言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がする」
実際に心の中で思っていても口に出してはいけないような気持ちになる言葉というものはある。
それを実際に言われるとどうだろうか。
かと言えば、思春期に誰もが考えるようなセリフも登場する。
「将来のため、と大人たちは言う。しかし、将来とは確実に握り締められる宝であり得るのか」
主人公の時田秀美は、物事に対して極めて素直な人物なのだ。だからまわりのクラスメイトや先生からうっとうしく思われている。
読み進めるうちに本書がただの青春小説でない人間として大切な部分に重きが置かれていることが分かってくる。
時間については、
「ぼくの時間は、自らの歩幅と同じように歩いていたのだ」
クラスメイトの死から祖父の死を連想する場面に対しては、
「それは、大きな悲しみというより、ひとり分の空気が出来ることへの虚しさを呼び覚ます。人間そのものよりも、その人間が作り上げていた空気の方が、ぼくの体には馴染み深い」
著者のあとがきでは、
時代のまっただなかにいる者に、その時代を読み取ることは難しい。
(中略)
私はこの本で、決して進歩しない、そして進歩しなくても良い領域を書きたかったのだと思う。大人になるとは、進歩することよりも、むしろ進歩させるべきでない領域を知ることだ。
わたしの中で、主人公の時田秀美と著者の山田詠美がつながった。
なぜか山田詠美という会ったことのない女性を好きになった。
ああ、そう言えばわたしは息子の名前に素直な人生を送ってほしくて「直也」とつけたのだが、肝心のわたしはどうなのだろうか。
きっと「素直さ」を持ち続けて生きていくことの難しさと大切さを著者は『ぼくは勉強ができない』で伝えたかったのではないか、と思う。
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