豚の埴輪/長崎瞬哉

「豚の埴輪」

悔しいという思いは家族において共有される。

わたし自身のことではない。
実家から祖母の初盆の法要を済ませて帰宅する途中のことだ。
高速道路の藤岡サービスエリアに立ち寄った。ここは、サービスエリアに併設された遊園地があり、子どもたちが小学校に上がる前はよく立ち寄って一緒に遊んだ場所だ。遊園地は今もあるが、子どもたちは見向きもしなくなった。今日はここで地元の団体が作った埴輪が展示されていた。武人や馬の埴輪、土偶などが昔ながらの作り方で再現されていた。大きさが手のひらくらいの小さい埴輪は、千円から五百円くらいで販売されていた。わたしはこうした偶像などは大好きなたちなので気に入ったものがあれば、一つ買っていこうかなどと考えて物色していた。
しばらくして、妻が
「子どもたちが欲しい埴輪があるようですよ」
と言った。
子どもたちに問いただすと、上の子は腕をだらんと地に着けてつっかえ棒のようにしているへんな格好の埴輪が欲しいと言う。わたしは「悪くないね」と言った。下の娘は、女の子らしくかわいい豚の埴輪だった。愛嬌がある顔つきだ。これに対してもわたしは「かわいいね」と言った。そんな話をしながら、展示された埴輪を一周してもどってくると、販売用の埴輪の前には二人の婦人たち(たぶん親子だろう)が集まって店の男と何やら話している。話している最中に年を取った方の婦人が、下の娘が欲しいといった豚の埴輪を何度も触っている。わたしは気が気でなく、早く婦人たちが立ち去らないかと気を揉んだが、中々話が長引いている。そのつど豚の埴輪を婦人はなでるのだ。優しい手つきだ。店の男と婦人たちが話しているところに割って入り、「その埴輪をください」と言う訳にもいかず、わたしは、ただひやひやと見ていた。
上の子が、「僕、やっぱりいらない。お金掛かるから」と言ってきた。
下の娘は何も言わない。
婦人は、埴輪を二つ買って立ち去った。一つは、わたしの娘が欲しいと言っていた豚の埴輪だった。豚の埴輪は店に二つ置いてあり、残されたもう一つのかわいくない方だけが残っていた。店の男が売れた分を補充するように奥から別の埴輪を出してきた。わたしたちは、それには大して興味をそそられなかった。
「気に入ったものを買おうね」と言うわたしの言葉に、娘はコクリとうなずいた。

家に着く前に食べたアイスで子どもたちはすっかり埴輪のことを忘れたかに見えた。わたしはまだ悔しかった。
帰宅して娘が描いた絵は、さっき見た豚の埴輪を正面と横から見た設計図のようなものだった。あとで自分で作ればいい、と娘は考えたようだった。
悔しかった気持ちはいつしか消えていた。

長崎瞬哉

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