資本主義の置き土産

真の共産主義は資本主義のあとに来る、とはマルクスの言葉だが、アメリカをはじめヨーロッパの資本主義国家が次々と崩壊している昨今、この言葉が予言となるかはわたしの生きているうちに明らかになる気がしている。
資本主義のおかげで世界中のあらゆるものが、一国にいながらにして手に入るようになった。
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【写真/2012年1月6日 ALGER空港で買ったあまいお菓子の土産】


自分が旅でもしなければ、手に入らない遠き異国の地の品々は、大昔から人々のあこがれだった。
流通が発達するためには、交通が発達しなければならない。
交通を発達させようとした一番の目的は、より豊かになろうと国が努力した結果だ。
資本主義国家では、その伸びが顕著だったということだ。
コンピュータや通信の発達も円滑により速く相手とのやりとりをするためには必要だ。
便利なコンビニも宅急便のトラックとホストコンピュータにつながったPOSシステムのなせる技だ。
トラックを戦車、POSシステムのコンピュータをミサイル弾道計算機に置き換えれば、戦争の発達がこれらの技術を後押ししてきたことに気づき、戦争をたくさんして儲けてきた国が、当然この点について強いことがわかる。
アメリカはGoogleやアマゾンを始めあらゆるインターネット技術の頂点に立っている。


資本主義の置き土産はなんだろうかと考えた。

コンピュータ技術の発展であることは確かだが、もう少し根本的なことをあえてあげるなら、わたしたちの身体を機械の身体にしてしまったことだと思う。
情報処理の勉強をしていたときに、コンピュータが記憶装置であることを習った。
電気が通じていなければ記憶できない記憶装置のそれは、人間より計算が速いし正確だ。おまけに記憶したデータを「忘れる」ということがない。
わたしたちはその記憶できる機械にあらゆるデータを記憶させた。
携帯電話に入っている情報は、ほとんど人の脳には記憶されてはいない。
自分の携帯電話の番号さえ知らない人もいる。
友達の名前、記念日、明日の予定、おいしいラーメン屋の看板、綺麗な風景写真、赤ちゃんが初めて歩いたとき映像…すべて機械に記憶させて、自分はその操作者と化している。
あげくの果てには、操作方法さえ忘れ、ホームページで操作の仕方を調べる毎日だ。
文字がなかった時代、声に出して憶え踊りや歌で物事を伝えていった。
文字が発明されて、人々は歌い躍ることをやめた。
コンピュータがなかった時代、人はあらゆることを文字で記した。
文字で記すという行為は、身体で憶えるという行為でもある。
コンピュータが発明されて、人々は文字で記すことが少なくなった。
機械に脳のかわりをさせたわたしたちは、さながら機械人間だ。
現代人の身体の中には何が入っているのだろうか。

脳も手も足も退化させていくのが、コンピュータや車などの機械を使うということかもしれない。

今日は雨だった。
職場の同僚が雨の中で落とした携帯電話が使えなくなった。
コンピュータも「忘れる」ことがあるようだ。

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